桜並木の中、俺は一人静かに歩いていた。
春真っ只中。
桜は満開で、風が吹けば抜け落ちてしまう花びらもある。
俺の翼に、幾枚もの花びらがとまる。
そんなことはかまわずに、歩き続けた、
そして、俺は一本の木の前に立つ。
手を伸ばし、幹に触れる。
木独特の温かさを感じながら、俺はゆっくりと手を離した。
広がったままの手のひらに、一枚の花びらが落ちてくる。
それをぐっと握りながら、俺は樹を見つめた――


ひらひらと散るそれは、雪に似たものがあった。
でもそれは、雪よりも温かくて、美しいものだった―――・・・


・・・これから先は、俺の記憶の中で繰り広げられたどりーむあんどいであるというわけではない。
記憶の中、までは確かに正しい。
でも違う。『記憶の中で繰り広げた』んじゃない。
確かに俺の目の前であったことで、確かに俺の手で触れ、俺の耳で聞いて、俺の心で感じたものだ。
それを踏まえて、読んで欲しい。
一人の天使の、日記として。

俺はその日、いつもと同じように空を飛んでいた。
まだ雪がちらちらとふる二月か三月。
風がすこし冷たい。
少し寒いと思いながら、俺は今までに行ったことがなかった山へ向かった。
いつもの飛行高度よりも高いから面倒だったのだが、何を思ったかその時にふと行きたくなった。それだけ。
そして、あるものを見つけた。
山頂の・・・中心くらいに、座っている、『もの』。
回りは岩だらけ、色もなく、ただただ広がる荒野。
そんなところ、今までにいくつも見てきたのだが、そこに『モモイロノネコ』がいることなんてなかった。
俺が来た方からは背中しか見えなかったから、興味本位でその猫の前面にまわってみた。
そして、驚いた。
その猫は、じっと俺を見返してきた。
別にそれが原因じゃなくて、その猫が『オンナノコ』だったからだ―直感だけど―。
猫がなめるように俺を見る。
何だ何だと重いながら立っていると。

「羽・・・」
「・・・ん?」

猫の目が何かを睨む。
俺はその視線を追いかけ、翼にぶつかり、翼を背中の後ろに隠した。
あまり見えないことを確認してから、猫に向き直る。
探るような視線はまだ消えない。
俺はすこし不審げな顔をしながら言った。

「お前さ・・・なんか用?」
「あなたこそ何の用があるの?じろじろ観察して」

観察じゃない。少なくとも俺は観察じゃない。
そう思って、俺は少しいらつきを覚える。
むかつく奴。
人の羽を睨んだかと思えば俺に突っかかってきて・・・
これ見よがしに舌打ちをして見せると、その猫はふんと鼻を鳴らす。
険悪なムードが一瞬漂う。
冷風が俺達をなでた。
一瞬気が緩み、大きなため息をつく俺。
それを見て、少しだけ息を吐くその猫。
険悪なムードは緩和されたようだ。あの短時間で。無理だろ。
少し落ち着いてから、俺はあることをじっくり考えた。
なぜ女の子しかも桃色の体の子がこんなところに・・・
そう思って、俺は訊いてみた。

「お前、何でこんなとこいるの?」
「・・・世界でここしか知らないから・・・かな」

女の子の言葉に、俺は驚いた。
彼女の知っているのはここだけ・・・
言葉を知っていること自体が謎だが、それは指摘しなかった。
それをいったら、物心ついたら家族がいなかった俺が言葉知ってるのもおかしいだろ・・・
いや、俺の場合は一応天使だし・・・知ってたし・・・
自問自答を繰り返し、さらに気になったことを訊く。

「家族は?」
「・・・・・・カゾク?」
「お父さんとかお母さんとか」
「おとーさん?」

少し首を傾げる猫。
俺は眉をひそめてみせる。
あんなすごい言葉を知っていながら家族を指す単語すら知らねーのかこいつは!
それくらい知っとけよと心の中で突っ込みを入れながら俺は彼女にもう一つ訊いた。

「名前は?」
「・・・しー」
「しー・・・って、普通に伸ばすの?」
「分かんないけど」
「・・・しぃ、のほうが可愛いだろ」
「どう違うの?」
「後味が違うんだよ」

女の子改めしぃ―本人の呼び名は完全無視の方向だ―はまた少し首を傾げてから、俺をじっと見て、ふっと小さく笑った。
俺は少し緊張しながら座り、目をそらす。
ああ、俺はどきどきしている。
今までにないほどに。
風に乗ろうとしても重たくてすぐに落ちそうだ。
どこに集中しているんだ。
どこに集中したらいいんだ。
そんなことに神経を持っていかれていると、しぃは俺に向かって声を出した。
その瞬間、俺はハッとして彼女を見る。

「あなたの名前は?」
「・・・ギコエル」
「ふーん・・・」

それだけ言って、俺達は同時に空を見た。
晴れ渡っている。
真っ青な空は、遠い海と溶け合っている。
雲の流れが、ゆっくりだった。

俺はその日から毎日そこへ通った。
理由の大半をなんとなくが占めていたが、その一部にも俺は別の感情を抱いていた。
しぃは俺が飛んでくる方向を覚えて、いつもそっちを向いて待っていてくれるようになった。
俺に大切なものができた。
今までになかった思いも増えた。
いつから変わったのかは、至極はっきりしていた。

某日。
俺は家の近くの森の奥深くへと向かった。
しぃに、花を見せてあげようと思う。
あんな高所にいるんじゃ、上からまばらに点々とあるものとしか認識されないのだろう。
この近くには、森の中にしかない、スミレ。
それを持っていけば・・・
そう思った。
数本のスミレを摘んで、周りに白い花を沿え花束にして、彼女の元へ持っていった。


「・・・・・」

反応は、最悪といっていいほどだった。
現に、俺が知る中では最悪である。
俺が持っていった花束を、叩き落としてしまった。
呆然として、拾うこともできない。

「私が嫌がるのを知っててやったの!?最低!」

知るわけがない。
教えてくれなかったじゃないか。
お前が花を嫌うなんて。
でも、俺は黙っている。
どうしたらいいか分からなくて。

「そんなにキレイな下界の物を持ってこないで!虫唾が走る!」

完璧な、拒絶。
呆然とする俺の前に立って、花を踏みつける。
彼女の視線が、痛い。
目をそらすと、声が聞こえた。
泣きそうな、声が。

「雨が降っても降らなくても死んでしまうのよ・・・そんなものを好きだと思うと・・・」

その言葉が呼んだかのように、急に雨が降り始めた。
最初はぽつぽつと、そしてすぐに滝のように。
しぃは慌てた形相で地に伏し、頭を手でかばった。
雨にぬれるのが、嫌なのか?
そう思った俺は、彼女の横に座り、翼を広げた。
しぃの頭上に降る雨は、全て俺が代わりに受け止める。
雨じゃなくても。
それが、災難だとしても。
しぃの驚いたような小さな声。
どんなのかは聞き取れなかったけど、続きは聞き取れた。

「翼が濡れたら飛べなくなるわ」

俺はそれを聞いて、ふっと笑いながらため息をついた。

初めて会ってから、一週間くらい経った。
いつも、俺は一時間くらいでしぃの前から消える。
今日くらい、長く一緒にいてあげたい。
そう思いながら、俺はいつもどおり同じ方向からそこに向かった。
彼女は、今日に限って今までにない行動をしていた。
大地に仰向けに寝転んで、ため息をついていた。
俺は彼女の横に立って、見下ろしながら言う。

「何してんの?」
「・・・また暖かくなってきたの」
「そうか・・・」

俺はそうは思わなかった。まだまだ寒い。
山頂で生活していれば神経も敏感になるのか・・・
そう思いながら、俺はしぃの隣に座り込んだ。
目だけこっちに向けて、しぃはじっとしている。
俺は、少しばかりどぎまぎしながら訊いた。

「お前、桜って知ってる?」
「さくら?」
「そ。・・・ま、知らねぇとは思うけどさ」

話の途中でしぃがここから出たことがないことを思い出した俺は少しだけはぐらかしながら―はぐらかせてないけど―言った。
俺のほうに首を向けたしぃは目をぱちくりしている。
そんな視線を浴び続けるのが辛くて、ほんの少し目をそらした状態で、俺は言った。

「桜ってのは、四月の中ごろぐらいにパーって咲く花だよ・・・すっげー綺麗なんだ」
「へー・・・」

雲を見つめて、しぃはニコニコと笑っている。
俺もふと微笑む。しぃを見るとそのまま変な顔になりそうで、雲を見て。
桜の話をしていて、俺はふといいことを思いついた。
ここで約束してあげよう。
俺がいつか誰かに約束しようと誓ったこと。
しぃになら、約束できる。
そう思って、俺は言った。

「なあ、今度桜観にいこうぜ」
「え・・・いいの?」
「当たり前だろー。俺、いつか誰かと一緒に観にいきたかったんだよ」

しぃはしばらく笑顔で聞いていたが、途中でふと真顔になった。
じっと俺を見つめてから、震える声で言う。

「私、外の世界何も知らない・・・」

彼女の肩が震える。
彼女の瞳が揺れる。
それを見るのは、痛かった。
だから俺はしぃの両肩をぐっと握って、言った。

「俺が、護ってやる」
「・・・」
「お前だけは・・・桜のように簡単には・・・散らせないから」

しぃはその言葉を聞いて、少し表情をやわらかくする。
それを見て、俺はしぃの頭を小さくぽん、と叩いた。
にこり、としぃが笑う。
つられて俺も笑う。
桜を見せたら、もっと笑ってくれる。
そんな気がした。
だから、桜が咲くまで・・・そして桜が散ってからも・・・
俺はしぃを護る。
そう、決めた。でも、伝えられない。
彼女はいつになくニコニコしている。
彼女をちらちらと見ながら、俺は複雑な気分だった。
今の彼女の思考回路の半分は桜だろう。
桜がいつごろに咲くか考えながら、俺は彼女をしっかりと見つめなおし、言った。

「おい」
「何?」
「桜が何月に咲くか知ってるか?」
「四月の中ごろでしょ?さっき言ってたじゃない」

そう言いながら、しぃはにこりと笑う。
俺は大きなため息をついてから彼女の目の前に座りなおした。
羽をばさばさとはためかせると、抜けた羽根が一方に飛んでいく。
少し迷惑そうな視線を感じて俺は羽を下ろした。
これから、滑空練習をするつもりだ。
桜のことはただの振り。
しぃは空を飛ぶことがどんなものか知らないだろう。
そう考えながら、俺は切り出した。

「今度一緒に桜見に行くんなら、俺にしっかり捕まって飛ぶ練習しようぜ!」
「え?・・・大丈夫だよ別に、感覚の想像はつくから」
「いーや、想像と事実は別モンだ」

俺はそう押し切ってしぃの腰を持つ。
きゃぁ、と小さく叫んだしぃもしばらくしてからおとなしくなる。
そして、俺は彼女を落とさないようにぐっと抱きなおしてから山から下りた。
ジェットコースターも顔負けの速度。
地上がぐんぐん近づく。
しぃはぽかんとして、必然的に下を向く。
俺が地上に足をつけたとき、しぃは小さく何かを言ったが聞こえなかった。
彼女を地面に下ろしてしぃの目を見ると、しぃはじっと俺を睨んだ。

「分かったわ・・・もう分かったわよ」

視線が痛い。
怒らせたか、と思い俺は少し目を細める。
しぃは一歩こっちに近寄ってから、ぽす、と俺の腹にパンチを入れた。
痛みなんて無い。
弱々しい。
彼女はこんな子なんだ。
そう思っていると、しぃはにっこりと笑いながら猛烈に痛いパンチを繰り出してきた。
さっきと、同じ場所に。
奇声を上げてしぃを見つめる俺を、しぃは悪女の微笑みを浮かべながら言った。

「許してあげる。さ、上に戻して」

ぞっとした。
悪女だ、悪女。
なんというのだろうか、自分が反対したというのにそれを押し切って結婚しやがってそのせいで嫁に厳しくする姑・・・
そんな感じだ。俺は嫁どころか女でもないけど。
そう思いながら、俺はしぃの腰を持ち、ゆっくりと空に舞い上がった。


山頂に戻り。
いつもの位置にしぃを置き、俺は彼女の目の前に座る。
しぃの目が笑っていない。
怖いと思いつつ弱々しい声で謝ってみた。

「ごめんよー・・・」
「もういいわよ。だから、桜の話をして頂戴」

ビバ、姑。
自分が気に入らない味噌汁を作り直させて、それも「気に入らない」といった挙句に「もういいわ、あなたは茶碗でも洗ってなさい」・・・
そんなドロドロの昼ドラ風の痛さだ。
・・・昼ドラなんて見たことも無いけど。
脳内が狂いそうになりながらも、俺は説明しだした。

「んー、場所によって咲く時期は違うし、花の開き加減も違う。種類もたくさんある」
「へー・・・」

しぃの目がきらきらと光る。
あ、姑引っ込んだ。
そう思って、俺は少し微笑みを抱きつつ言った。

「俺が好きなのは満開だ。道の両脇に植えられた桜の木が一斉に大きく広がるんだぜ・・・考えてもみろよ、神秘的だと思わねぇか?」
「・・・うーん・・・そうなのかな・・・」

彼女は考え込むそぶりをする。
そこまで言って、やっと気づいた。
俺がしていた説明は、桜を一度でも見たことがある奴に対するものだ。
これじゃきっとしぃには分からない。
半分あせりながら、俺はうっかり事実を言ってしまった。

「まあ、満開のときはもうすぐに散っちまって、俺がよく見るのは・・・散ってる・・・花びら・・・」

なんとなく自分の表情が歪んだ気がして、それを見られないようにそっぽを向いた。
散った桜は綺麗でも、いつか踏まれるんだ。
俺だって何枚の桃色の花びらを潰してきた。
それなのに自信を持って『神秘的だ』なんて言えない・・・
そう思って、俺は視線をゆっくりと地面に落とした。
思い出したように顔を上げると、しぃはニコニコしていた。
その笑顔があまりにもまぶしくて、俺は驚いて目を見開く。
しぃは笑い顔で言った。

「桜が散るときって見たこともないけど、少なくとも雨が降るときよりも雪が降るときよりも温かくて綺麗なんでしょ?」
「・・・ぇ・・・」

ポジティブさに、笑いそうになった。
雪と比べたら自分的には雪のほうが綺麗な気はするんだけど・・・
桜は、温かい。
たくさんの人の思いを一身に受けながら育ったから。
それは、事実。
返答に困っていたら、しぃは続けた。

「かといって太陽みたいに熱くなくて・・・きっと、気持ちいいんだろうな・・・」
「・・・ばぁか、当たり前だろ・・・綺麗で・・・綺麗だけど・・・」

しぃは首をかしげた。
俺の言葉にだろうか。
でも、俺はそんなこと考えなかった。
俺はその後に続ける言葉も思いつかなくてじっと彼女を見つめてから・・・


「お前にだけは、かなわない」


ぎゅっと抱きしめた。
彼女は驚いたように俺の後ろをじっと見ていた。
・・・何も見ていなかったかもしれない。
でも、隣でにこりと笑った気がした――

どきどきする。わくわくする。
あんなことをしでかしてから、俺はあそこにいくのに、感情の高まりが収まらない。
でも、今日はそこに長い間いることはできない。
俺より上級の天使のモララエルに呼ばれていたからだ。
でも理由も分からずに一人になるしぃの事を考えるのは嫌で、俺は急いで彼女のところに行って事情を話そうと思った。
今までにないくらいの速さで飛ぶ俺の後ろから声が聞こえた。

「――何をしてるんだい?」

俺の体がビクンと波打った。
止まろうと思ってもスピードがスピードだからしばらく飛んでしまい、思った地点より数メートル先で止まり、俺は振り返った。
そこには――

「モララエルさ・・・ん?」
「そ。初めましてかな、多分。ギコエル君・・・だったね」

モララエルがいた。
久しぶりに呼ばれた俺の名前。
奴は笑った顔のままじっと俺を睨んで、続けた。

「僕の用は君の生死にかかわることだよ?それなのに・・・」
「いいい行きます!モララエルさんのほう先に行きます!」

俺は勢いよく敬礼をする。
モララエルは少し目を細めたけど、俺を睨むのはやめなかった。
奴は相変わらずの笑みで俺に話しかけてきた。

「・・・ま、つけてて正解だったってことかな。君は最近今までにないくらい元気だったし・・・ここでいいよ、会っちゃったし」
「・・・・・・」

俺は無言で奴を睨んだ。
モララエルはじっと俺を睨んでから、口を開いた。

「この世界に、一人の天使が堕とされたことは知ってるよね?」
「・・・ああ、モナファー・・・様に聞いた」

小さくうなずいた俺を見て、モララエルは少しだけ睨みを緩めた。
でも俺の緊張は解けない。
モナファーに聞いたなら確かだ、と感じたんだろうか。
モナファーは一応―一応じゃないけど―世界の神。
モララエルも信用しているはずだ。
モララエルは小さく声を出してから、別のことを言った。

「その元天使は・・・この近くにいる。ちなみに言うと・・・君が上にいないときにモナファーが言ってた。『堕天使に近づいた者は反逆罪で死刑』って」
「はぁ?近づいただけで死け・・・」
「そういう意味じゃないって。『親密になったら』ってことだよ」
「それにしてもさ・・・なんでそれだけで死刑になるわけ?」
「相手は罪人。罪人に天使を近づけて感化されたら面倒なことになる。そういうことだと思うよ、直接は聞いてないけどね」

モララエルは俺の反論をことごとく潰した。
何が楽しくてそんなことをしているんだ。
そう思いながら、俺はモララエルをじっと見た。
六枚の大きな羽。
それは、俺たち天使の中でも上級にある証だ。
・・・もちろん、モナファーの方がすごい羽だが。
その羽を最大限に広げ、奴は俺に背を向ける。
そして小さくつぶやいた。

「・・・血迷うなよ」

羽ばたきの音が聞こえた。
奴の白い羽根がちらちらと舞って下に落ちていく。
それを見て、俺は急いで残りの道を進んだ。
自己記録最高速でそこに向かう。
雲が猛スピードで流れていく。
しぃが見えてきたころには、俺は疲れきっていた。
彼女はこっちを向いていつもどおりじっと待っていた。
いつもと同じような笑顔で。

「うん、今日は遅かったのかな」
「――ごめん」
「き、気にしなくていいよー。毎日同じ時間に来れるわけないもんね」

俺の声が、今までにないくらいに震えた。
突然、モララエルの言葉を思い出したから。

『この世界に、一人の天使が堕とされたことは知ってるよね?』
『その元天使は・・・この近くにいる』

一瞬、俺の中に浮かんだ疑念。
それを一生懸命になって振り払う。
まさか・・・まさか。
そう思って。
そう考えると、人間―天使だけど―は誰しもそれを立証する証拠を立てるものだ。
たとえ望まなくても。
そして、その望まないことを打ち消すのか増やすのか、それの境目になることを質問した。

「・・・しぃさ、食事・・・どうしてんの?」
「・・・しなくて平気だよ?何で?」

ああ、もうだめだ。
一瞬そう考える。
今日の俺はやけに一瞬の行動が多い。
何があったんだ、俺。
俺はまるでコンピュータのように今までの自分内論をまとめ上げた。
家族がいない。
でも言葉は完璧。
それでも桜を知らない。
雨風に吹かれ続け、体力を消耗したはず・・・
それなのに。

「食事しないで平気って・・・どういうことだよ・・・おい・・・!」
「・・・?」

しぃが小さく首をかしげた。
うつる。このままではこの不安がうつる。
そう思って、とにかく頭からそれを振り払った。
頭が痛い。
心も、痛い。
でも、俺はそれを否定した。
いるだろ、そんなんいくらでも。
食事しない仙人だって、滝に打たれて修行する僧侶だって、桜を知らないガキだって、言葉を完璧にマスターした外国人だって、家族がいない奴だって、飛行妄想がうますぎる引きこもりだって、羽が濡れたら飛べなくなるのを知ってる猫だって・・・!
そう考えて、すっきりした。
それがたまたま全部一致しただけなんだ。
無理やりそう思い込んで、俺はじっとしぃを見た。
しぃはいつの間にか心配そうな目になっていた。
俺は必死に頭をなでながら言い訳をする。

「いーや、もう何でもないよ、うん!お前は笑ってればいいんだよ」
「え・・・だって・・・心配で・・・」
「なんでもないって。心配しすぎると体壊すぞー」
「壊さないよっ!」

しぃの心配そうな声を聞きたくなくて。
俺は必死に彼女の頭をぐりぐりしながら彼女の心を照らす方法を模索していた。
必死に搾り出した方法がなんとかうまくいったらしく、しぃは頬を膨らます。
今の俺には、それで十分だった。

しぃには、伝えた。
今日、行けないこと。
だから大丈夫。
そう割り切って、俺は天上に来た。
たまには顔を出せ・・・というのがモナファーの見解だ。
俺設定では『たまには』は一年に一度とかそれ前後。
そのときに持っていくお土産は大概餅。
モチモチしたものが好きらしい。
持っていくといつも真っ先に請求して、俺の話など半分で聞いている。
そして、今日も餅を持っていった。
モナファーの部屋に入り頭を下げ、いすに座った。
社交辞令だし。
モナファーのいつもの請求。

「ギコエル!餅!餅をぉっ!」
「分かりましたよ・・・どうぞ」

俺は片手で餅を差し出した。
無礼なことにもかかわらず、モナファーはさっと取り、ほおばり始めた。
しばらくじっとそれを見ていたところで飽き飽きしてくる。
このまま待っていても話はなさそうだ。
そう判断して、俺は帰ろうと立ち上がった。
しかし、モナファーはそれを制した。
イラッとした目で睨んでやると、モナファーは餅を口から外し、真剣な目をして俺を見た。
何があるんだろうか。
怒られるのかと思いながら俺はもう一度座った。
モナファーは俺の羽をじっと見ながら言った。

「・・・指令を」
「・・・は?」
「ギコエルに、指令を与える」

初めて見た真剣な視線。
言葉がつまり、心臓も大胆に鳴る。
視線を俺の目までずらし、モナファーは続けた。

「・・・堕天使を探し出すること・・・気が向いたらでいいモナ・・・」

心臓がバクバクと音を発しだす。
それは、しぃの笑顔を初めて見たとき以上の痛み。
天下のモナファー様に逆らうことはできないし・・・
そう考えながら、俺はモナファーをじっと見た。
相変わらずの視線に、心を見透かされているように感じる。
そして、俺は小さく言った。

「・・・分かりました」

俺はそそくさとそこを去った。
これ以上はいたくなかった。
バルコニーに立って翼を広げた瞬間、鋭い視線を感じた――・・・

「やっほ」
「遅かったね」
「悪いな、家を出たとたんにリスやら狸やらにたかられた」

変わるはずもない山頂。
いつもと変わらない笑顔。
それが見たくて、俺は今日もここに来た。
俺だけの桜、今日も満開。
しぃの首が明らかに上を向いているのにやっと気づき、俺はすっと山頂に降りて――心臓の高鳴りに気づいた。
しぃじゃなくて、もっと別の、これは。
緊張だ。

「ギコエル、何やってるの?」
「モララエルさん・・・またつけてたんですか!」

またもモララエル。
地面に足をつけた俺の向く方向。
地面に座ったしぃの背中の方向。
いい迷惑だ。俺は少しだけ奴を睨む。
でも、そんなことを言ったら殺されそうだから黙っていた。
モララエルは少しだけ目を細め、地面に降り立ち、しぃの肩を叩いた。
驚いたように振り向くしぃ。
そのしぃの目の位置にあわせるようにしゃがむモララエル。
そして、モララエルの口の端がすっと上がって――

「どけ!」

俺は、なぜかタメ口で、しかも暴力まで使ってモララエルをしぃから突き放した。
両手を奴の胸の位置にぶつけ、奴を弾く。
モララエルは小さく舌打ちをして、空中に止まった。
俺としぃを交互に見つめ、一旦目を閉じ、その背についた六枚の羽を大きく広げた。
そこから舞い散った羽根が風に飛ばされ、俺の顔に当たる。
モララエルは未だ空に止まっていた。
その状態で口を開く。

「ギコエル、自己中心的な考え方で左右されるな」

俺の頭に、響いた。
突き崩される。
俺が今まで必死にぶら下がってきた『一人の人間としての役割』が。
俺は天使。
人間じゃない。
人を愛することは許されない・・・そういう、こと?

「お前にとってモナファーの命令は絶対だ・・・僕の友人のモナファーに何かしらの反抗をしても、僕は君を救ってやることはできない。最後に決めるのはお前だ」

サイゴニキメルノハオマエダ。
俺の心がずきん、と痛んだ。
たとえばモナファーがしぃを殺せといったときに、俺は殺さなきゃいけないのか。
命令は絶対なのか・・・
そう考えながらじっとモララエルを見つめた。
声も出さずに。
モララエルはもう一度じっとしぃを見てから、にこりと笑って去った。

「しぃ」
「え?」
「一つ・・・聞いていいかな」

俺は、同じ姿勢のまま訊いた。
この答えによって、俺は最悪の境地に立たされるかもしれない。
そう考えて、俺は涙をこらえながらしぃのほうを向いて、ぼそりといった。

「お前が俺のせいで死んだら・・・恨む・・・?」
「・・・なんで、突然・・・」

しぃはまだ続きを言おうとしたが、途中で言葉を切った。
下を向いて考えるそぶりをしてから、俺の目を見て言った。
明るい、笑顔で。

「・・・そんなことないよ、貴方のせいなんかじゃないから」

どうしたらよかったんだろう。
どうしたら、俺は彼女を救えたんだろうか・・・

春だ。
まだ暖かいとは言い切れないけど、春だ。
桜が開いている。
今は七分咲きくらいだろうか。
今から絶景のところにしぃを連れて行けば、満開の桜を見せてあげることができる。
まだ俺の中には迷いがあるけど桜観に行くくらい、いいよな。
そう思いながら、わくわくで心をほぼいっぱいにして、俺は彼女のいる山頂に――

「な」

山頂で一人仰向けになっているしぃ。
おかしいところはない。
・・・彼女が荒い息をしていること以外は・・・

どうしたらいいんだよ!
どうしたらいいんだ!
こんなこと・・・俺は・・・!

「ギコエル」

背後から、男の声が、聞こえた。
俺はしぃから無理やりに目を離し、声が聞こえたほうを向く。
ああ、こいつだ。
こいつに決まってる。

「モナファー・・・様」

翼を広げたままのモナファーがいた。
いつもと同じように笑っていて、俺は逆にいらつく。
じっとモナファーを見ていて、やっと気づいた。

笑顔の裏の、狂気に。

「やあ。君は報告もしなかったけど遂行してたモナね。いいことモナ」
「・・・・・・モナファー様・・・ここにいる桃色の猫、何ですか」

俺は、したくもないのにしぃを指さして、モナファーのほうを向いて冷静に言った。
誤解されなければいいと思いながら。
モナファーは一瞬ちらりとそちらを向いてから、俺の目にさっと視線を戻す。

「堕天使」
「―――!!」

声が出ない。
否定しろ。
否定しろよ俺。
でも材料が無い。
何日か前、俺は彼女を疑ったじゃないか。
無理やりすぎた否定。
それが、モナファーの金槌で粉々になった。

「・・・この女が・・・堕ちる前・・・何をしたんですか・・・」
「ああ、そのことモナね・・・」

モナファーの口元がふっと持ち上がった。
俺はさりげなくしぃの方に近づく。
口を滑らせないようにぎっと歯を食いしばりながら、俺はモナファーを静かに睨んだ。
モナファーもそれには気づいていたらしい。
そっと俺を見てから、空に目を移す。
楽しそうな声が聞こえた。

「この堕天使は・・・自らの家族が処刑されたことを根に持って、天使の大量殺人を犯した。君が天上にいないとき。もう・・・三年くらい経つモナ」
「・・・なんだって・・・聞いたこともない・・・」

本当に知らなかった。
モララエルも誰も・・・
俺が地上に長くいたから?
俺はもう忘れられるような天使?
恋をしてしまう・・・そんな天使は、天使じゃない?

「ただのバカモナ、こいつは・・・彼女の家族を処刑した上で地上に堕として天上の記憶を封じ込めたのは・・・」
「お・・・お前か・・・!お前は・・・そんなにひどいことをして・・・悪びれる様子も・・・!」
「悪びれる?ひどいこと?殺人を犯した彼女よりもひどいモナ?命を全うさせてあげてるモナよ・・・?」

絶対おかしい。
そう思うくらいの、言葉。
でも、真実・・・なんだろう・・・きっと。
知らない、知りたくない、知ってたまるかッ!
がたんがたん、もうだめ。
これを人間が表すなら「もうだめぽ」とか言うんだろう!
そうやって半分ほど怒りゲージが募ってきた頃に、モナファーの声が聞こえた。

「殺すならモナを殺せばよかったモナ・・・全く関係無い奴を殺しても何の意味も無いのに・・・!」

返す言葉もない。
俺の口からぽろぽろこぼれていく思いの丈が、ことごとく砕かれる。
奴のやってること・・・うわべはいいことなのかもしれない・・・
でも、どうなんだよ。
おかしい、絶対に!
俺が自分の理性を保つのに必死な時、遠くから・・・近くから・・・声がした。

「ま、どうせ殺された天使もいらない奴だったモナ・・・しぃ族なんてうわべだけの笑顔を振りまくだけモナ・・・一家そろってとんでもないところだったモナ」
「・・・一つ訊いていいですか」

最後の理性だ。
そう無理やり脳に叩き込んで、ぐっとモナファーを睨んだ。
悔しいほどのニタリ顔。
涙など見せるものか。
心臓が波打つように音を発する。
ゆっくりと口を開いた。

「しぃの・・・堕天使の家族の処刑理由は?」
「・・・それは簡単モナ」

予想がついた。
大体こういうときは。

「ちょっとたてついたからモナ」

・・・もうだめだ。
はちきれそうなまでに、俺の心は膨れ上がった。
反抗したら殺される。
死にたくない。
しぃの涙を見たくない。
俺はぼろぼろになりながら、最後の結末を―――

俺は空に舞い上がった。
しぃを抱いて、地上一メートルくらいのところまで。
勢いで風を起こし、モナファーの隙を作る。
そしてモナファーのほうを向いて、言い放った。
冷静に。多分。

「人でなし」

そのまま、俺は地上へ飛んでいった。
ああ、俺は死んだ。
この時点で俺の将来はないだろう。
でも、せめて・・・!
俺の翼が風を切る。
俺達以外の全てがひゅんひゅんと後ろに流れていく。
まだ生きてる。
まだ死んでない。
そう自分に言い聞かせながら陸に降り立つ。
そこは・・・

「・・・起きろよ、しぃ」
「・・・」

桜並木。
俺がこの世で二番目に美しいと思ったもの。
ひらひらと舞い散る桃色の雪。
透明の風にさらわれ、空に舞い上がったそれを、俺は美しいと感じていて。
しぃがゆっくりと目を開けた。
俺は、彼女をゆっくりと地面に降ろす。
花びらの中で舞う彼女を見て、俺はそっと悟った。

もう、壊れてしまう。

モナファーにつけられた傷は尋常じゃなかった。
それでも生きているのが奇跡だ。
せめて、もう少しだけ・・・
彼女といたかった・・・

彼女が、ゆっくり、ふんわりと、桜吹雪の中に倒れた。

桜が散るのは止まなかった。
俺は走ってしぃのところに向かう。
俺の体に桜が降る。
しぃの体に桜が降る。
俺がそっとしぃの体を抱き上げると、しぃは泣きながら言った。

「見つけてくれて・・・ありがと」
「・・・ん、あれはきまぐれだったから・・・」

しぃの言葉に、ほんの少し懐かしさを覚える。
悲しみを忘れられる、あの時のわくわくも。

「スミレのこと・・・ごめんね」
「いいんだよ・・・怒られちゃったけどさ」

恥ずかしさと、ほんの少しの胸の痛みが歩いてくる。
過去が、こんなに優しくて、冷たかったなんて。

「桜の話・・・ありがと」
「飛行訓練の時は怖かったよ」

ゆっくり、じわじわと今までの感触が戻ってくる。
しぃが、覚えててくれてる。

「モララエルさん・・・おかしな人だったね」
「・・・ああ、そうだな」

奴のせいで、と一瞬思う。
でも、それはすぐに打ち消す。
最後に悪かったのは、俺じゃないか。
自分の中に浸っていると、そっとしぃが声を出した。
その声の小ささに、俺はもう、希望なんて捨てていた。

「桜・・・きれいだね」
「・・・ああ」
「見れてよかった」
「・・・そうか」

この期に及んで助けようなんて思わなかった。
ただ、彼女が言いたいことを言わせてあげようと。
彼女の伝えたいことを、この手に汲み取ってあげようと。
それが、彼女の望みだから。

「・・・ギコエルが、私をこんなに好いてくれて・・・うれしかったよ・・・」

初めて呼んでくれた名前。
その喜びは、一瞬で散った。
彼女の命も、散った。
小さな声で、震える声で、彼女の名をそっと呼んだ。
しぃ。しぃ。何度呼んでも足りないよ。
もう目が覚めないのは分かってる。
なら、どうすれば俺は満たされる・・・
伝えたいこと、たくさんあったのに・・・!
俺の手に、温かさは残っていなかった。
ただ、全てが消えていくような、空白感は残った。

桜の木の下には死体が埋まってる?
それが事実かどうかは自分で確かめることだ。
少なくとも、俺が見たところには埋まっていなかった。
でも、次に誰かが見るときには埋まっている。
桜の木の下には今、桜色の肌を持った奴がいるから。

・・・俺の思いの丈をつづったのは、これくらいしか見つからない。
で、俺は今、これを語っている。
・・・つまり、俺は何とか生き残った。
モララエルやその他の友人の天使が必死にモナファーをなだめてくれたおかげで、俺は今ここに立っている。
毎年、この桜並木に来ている。
でも、天上に入ることは許されないことになった。
・・・たまに向こうから、餅取りに来るけど。


美しいものはやがて散る運命にある。
しかし、本当に美しいものは、誰かの心に深く刻まれて、永遠に残る。


ふと目を開けた。
桜は未だ振り続ける。
翼に積もる桃色。桜色。
その色に、俺は愛しかった彼女を思う。
ゆっくりと、俺は拳を開いた。
そこから、

・・・一枚の花びらが、零れ落ちた――

〜〜〜〜後書き〜〜〜〜〜〜

「何回も読み直して納得いくまで細部を書き直しました。つたない文章ですが読んでいただき感謝です。」