遠い遠い昔。
まだ虐殺をする者と牢の外で対話をするのが普通だった頃。
まだ半角喋りをする者を街路で見掛けるのが日常だった頃。
そんな昔を現代へと一つコマを進めた学者がいた。


私はフサ族のAAとしてこの世に生を受けた。
生まれこそは良くなかったものの、子供の頃から大学までの学力は常にトップクラス。
学者になる為の試験も一発で合格し、学者になってからの功績も日を増す毎に上がっていった。
今では政治に関わる者の中でもピスアという名を知る者だっている程だ。
ただ私はその過程で大きな苦難というものに襲われたことが一度も無かった。
しかしこの私もいずれはそれと向き合うことになる、それは承知していた。
だがなぜ運命はあのタイミング、あの時を選んだのか。
そしてそれによって私は何か変わったのだろうか…。
その頃の記憶が遡る。
「私は天才だ」、その頃の私もそう思っていた。

私に日課は無い。今日はたまたま朝から書類の山と向き合うことになっただけだ。
学者というと寝る間も惜しんで研究に明け暮れるというイメージが強いだろうか。
まあそうだとして、私の仕事はそれとは少々異なる。
といっても別に私だけが特別という訳ではなく、そういう人は結構いる。
まあ実際はイメージとは違うというのを想像してもらえれば分かり易いだろうか。
だが私とそのイメージと異なる人とでは違う所が一つだけある。
イメージと異なる人も最初はその強いイメージの方にいたのだが、私は他の学者よりもその移動が早かった。
早々に移動したのだ。
まあそれと私が天才なのとは殆ど関連しないようだが。
ちなみに移動した者の中には「あの頃の方が良かった」などと呟く者も多々いるが、私はそうは思わない。
もし移動する時期が遅くなっていたとしてもだ。
彼らの言うそれは、私には楽をしたいとか自己を満たしたいといった願望に駆られているようにも見える。
とはいえ別段彼らを非難している訳ではないし、楽や自己満足を否定している訳ではない。
ただ単に私と彼らとでは考える基準が違うというだけだ。
それに純粋にそれを選んだ人だっているのだろうし。
だからそういう学者がいても、それを批判する批評家がいても別に構わない。
勿論常識の範囲内でであるが。

「終わりだな。」
ピスアは最深部に眠っていた最後の一枚に手を伸ばし、目線へと手繰り寄せる。
そしてそれは秒針が一周する前に、今度は最上部へと場所を移した。
一息尽いてから机に身を委ねて目を瞑ると、雨音とあの独特の泡の立つ音が先程より鮮明に耳に入る。
すぐに体を起こすと、今度は掛けていた椅子から立ち上がり、窓際へ位置を移す。
淡色の景色がピスアの目に映る。
目の前に見える公園に子供の姿は無く、水溜りが絶えず波立っているだけだ。
雨はガラス越しでも認識に困らない程の降りをしている。
ピスアはすぐに位置を戻した。


「あ、もう書類片付いたんですか。相変わらずですね。」
私が書類を終わらせて、他の雑用も手当たり次第片付けていた所へ差し入れを持った彼は来た。
彼の名はラズニという。私の助手だ。
頭はそれ程良くはないが、細かな事にも気を利かせる良い奴だ。
私は「まあな」と適当に言葉を返した。
ラズニは机に差し入れを置く。
…まただ。
ラズニはニラ族でありながら大のコーヒー好きだ。
まあ私はそれ自体を否定はしない。寧ろどちらかといえば肯定派だ。
文化だの常識だのに捉われていては画期的な成果など全く望めないからだ。
…が私にまでそれを毎朝のようにカップに注いでくるのは否定したい。
しかしラズニには私を大のコーヒー好きにさせようという思惑も何も無い訳なのでそれは出来ない。
まあやろうと思えば出来るが私はしない。
「そういえばお茶が切れていなかったか。」
といいつつ仄めかしてしまった。
しかしここ数日は本当にコーヒーばかりが続いていたので言いたくもなる。
「ああ、そういえばそうでしたね。」
思わず呆れてしまった。
口から不意に出た言葉が事実だったからだ。
もし今この事を言っていなかったらずっとコーヒーが続いていたというのか。
そう思うと流石の私も頭が痛くなってきた。

その後ピスアは気晴らしといっていいのだろうか、自分でお茶を買いに行くことにした。
ピスアが戸口を開けた時にも、雨は変わらず降り続けていた。
門を出て右に曲がった所で二階に視線だけを移すと、心配そうにラズニがこちらを見ていたので、気付かぬ振りをしてそのまま通り過ぎた。
暫く歩くと研究所は完全にピスアの視線から消えていた。
ピスアは更に歩を進めていく。

あまり見たくない光景が目に映る。
アフォ族だ。
アフォ族という種族は半角喋りをする知能の低いAAに付けられるものだ。
そしてアフォ族の最たる特徴は、アフォ族が殺されても殺した人は法的に罰せられないのだ。
否法的にだけではない、世間の風も殆ど変わらない。
しかしまあそれに対して私は特に異論は無い。
アフォ族側が危害を加えてくる以上、防衛として仕方のない事だと考えているからだ。
もしこれが戦争のように命令であったら話は別だが。
戦争…それは平和から最も懸け離れた存在。
私はこの世界が平和になることを望んでいる。
だから学者になった訳ではない、抽象的な望みだ。
現に私は平和の為に人生を捧げたことは一度も無い。
せいぜいそれらしい研究にほんの少し時間を割いたくらいだ。
とはいえ大抵の人はそんな考えだろう。
自分が何かをしなくても他人が何とかしてくれる、他力本願という奴だ。
だから皆が平和を望んでいても、実際には平和は来ない。
とはいえ私はそんな現状を批判している訳ではない。
ただ偶に考えることがあるのだ。
我々の未来は一体どんな姿をしているのだろうか…と。

何とかアフォ族の傍を素通りすることが出来た。
名前こそはアフォ族だが、そこまで馬鹿な奴らばかりではない。
私が防衛以外で攻撃することが無いということを奴らは理解しているのだ。
だから私がアフォ族に危害を加えられたことは他の人と比べて格段に少ない。
まあそこには私が研究所に篭ることが多いという計算は除かれているのだが、恐らくそれでもまだ少ないだろう。

「酷いな…。」
思わず声に出てしまった。
またアフォ族だ。
しかしアフォ族自体を酷いと言った訳ではない。
死んでいた、体中を紅く染めて。
こんな惨い殺し方をする奴は決まりきっている、虐殺厨の仕業だ。
虐殺厨とは理由も無く必要以上のアフォ族を残虐な手段で殺す、常人の思考を百八十度覆したような奴らだ。
そう奴らは狂っている、正常ではない。
なぜここまでやるのだろうか、我々凡人には全く理解不能な領域だ。
そのあまりの変わり果てた姿を見て、私は気分が悪くなった。
私は血が嫌いだ。
血は死に最も近しい言葉であるからだ。
だからといって死を完全に不のイメージで捉えている訳ではない。
この世に生きる全ての生命は皆いずれ滅びる、それだけは変えられない事実であるから…。
しかしそれでも気分が悪くなるものはなる。
結局は理屈などでは語れないものがあるのだ。


その後は特に何も無く、ピスアは目的の店へと到達した。
ピスアはその店でお茶とそのついでのその他雑貨を買うと早々に店を出た。
ピスアが店の外に出た時には雨の勢いは僅かに弱まってきていた。
しかしそれは傘を差さなければいけないことには代わりのない強さであった。
ピスアは傘を差して来た道を戻っていく。
途中ピスアは来た道とは違う道筋を選んだ。
あの光景を二度も見たくはないのだろう。誰だってそうだ。
尤もそっちの道に何も無いという根拠は何も無いのだが。


こんな事なら元来た道を素直に戻っていればよかった。
前方から紅く染まっている二つの人影が見えてきた。
そこから少し歩を進めると詳細が把握出来た。
あれはただの血ではない。
返り血だった。
つまり奴らは返り血を浴びるような行為をした者。
そう奴らこそが虐殺厨、狂った常民。

「ピスアじゃないか。珍しいな、引き篭もりのお前が買い物なんて。」
声を掛けられた。
奴らは傘を差していない。明らかに常人とは違うものを感じる。
とはいえアフォ族とは違い、知能は正常な奴らは我々市民に危害を加えることは無い。
だがそれもこの二人のようなマシな奴らの場合である。
酷い奴はアフォ族を庇ったり虐殺を非難する一般市民にさえも手を掛ける奴もいるのだ。
恐ろしい…。
他力本願の裏にはこういう現実も隠されているのだ。
「余計なお世話だ。」
一応礼儀として返答してやった。
こいつらとは別に親しいわけでも何でもない。
ただ単に同じ街に住んでいる顔見知り程度の存在だ。
私はあの研究所に常時住み着いている。
だから私の家はあの研究所だ。
ちなみにラズニには列記とした帰る家がある。家庭もある。
私の方が少しではあるが年上なのに。
…まあそんな事はどうでもいいのだが。
この街は都心部から結構離れた所にある為、人口密度も少なく比較的顔見知りが出来易い環境なのだ。

ちなみに二人に行きに見たあの亡骸について聞いてみたが、返ってきた答えはノーであった。
二人はあの辺にはアフォ族が少ないという理由から殆ど行っていないそうだ。
尤もこの二人が殺そうと他の奴が殺そうと、一つの生命が失われたことには何の代わりもないのだが…。
それを聞いた後私は奴らと別れた。
奴らの体に付いていた返り血にこそは嫌気が差したものの、特に何と無くその場を過ぎ去ることが出来た。

暫くすると漸く家が見えてきた。
玄関を目前にしてピスアが二階に目を向けるとそこにラズニの姿はなかった。当たり前ではあるが。
ピスアが家に帰る頃には雨も大分小雨になっていた。
今更という感じもするが、天気なのだから仕方がない。
それからピスアは行く前に中途半端にやり残していた雑用を全て終わらせる。
気付けば調度良い時間帯になっていて、暫く待つとラズニが昼食を運んできてくれた。
ちなみにラズニの作る料理は美味しい。職の道を間違えたのではないかと思える程にだ。
ピスアはそれを食べ終わると疲れたのか休憩用のベッドに就いた。
その頃には雨音は完全に消えていた。

「やってしまった…。」
気付いた時にはもう手遅れ。
二十分の仮眠のつもりが、ついうとうとと一時間半も眠ってしまったのだ。
私とした事が何たる失墜。
といってもそんなに慌てる必要は無い。
猛スピードで今日の仕事を終わらせればいいだけの話だ。
幸い私には並みの人には到底付いてこれない程の仕事をするスピードを兼ね備えている。
しかしまあだからといってうっかり寝過ごしてもいいのかと言われたらそれまでなのだが。
とはいえ毎回寝過ごしている訳ではない。当たり前ではあるが。
とにかくさっさと急いで仕事を進めよう。
始まってしまえば、後はただただ猛スピードでやるだけだ。

今日は時間が経つのが早い。眠ってしまったせいなのだが。
だがその一時間半のブランクもほぼ全て埋めることが出来た。
今は少し手を休めている。
とそんな所へラズニが部屋へと入ってくる。
そして私に告げた。
「それじゃあ僕はこの辺で。」
ラズニは家へと帰るようだ。
確かにもういい時間である。
私はその場でラズニを見送った。
そのすぐ後に玄関の扉の開閉の音が微かに聞こえた。
窓を眺めるとラズニが帰っていくのが見えた。
家へと帰っていくラズニ。
私は独り我が家に残る。
外はもう暗い。


これがピスアの平凡な一日である。
勿論寝過ごしたりというのは例外だが。
それでも一日の印象はこんな感じだ。
それからピスアは床に就き、そして夜が明け朝がきた。
そしてピスアのそのタイミング、その時はもう目の前にまで迫っていた。

今日も一日が始まった。
暫くするとラズニが出勤してくる。
それまでに私は身支度を済ませ、いつも通りに持ち場へと就く。
ラズニが来たのはそれからすぐ後の事だった。
今日の私は下らない期待を抱いている。
そしてその期待はすぐに現実のものとなった。
昨日の成果が出たのだ。
「今日は珍しくお茶なんだな。」
…本当に下らない期待であった。


今日はどうも捗らない。
寝過ごした影響がまだ残っているのかどうかは知らないが、どうも仕事が捗らない。
まあ学者なら、否そうでなくても誰にでもある事である。
それに加え私の場合捗らないといっても捗っているので誰もそうは思わない。
まあそれはそれで困るのだが。
「あれ、今日は調子が悪いんですか?」
ラズニにはしっかりと分かってもらえる。
しかし長い付き合いとはいえこの洞察力、やはり職の道を間違えたとしか。

ラズニは空になったコップを下げようと部屋に入ると、ピスアの状態を察知し声を掛ける。
こういう所でのみピスアを驚かせることが出来るラズニだが、だからといってピスアの仕事が捗るようになるという訳でもない。
こればかりは誰にも治せない。
ラズニが心配そうに見ていると、ピスアは突然立ち上がり扉の方へと向かっていく。
それに対してラズニが問い掛けると、「散歩だ」という返答が戻ってきた。

一瞬であるが確かに沈黙が流れた。
「珍しいですね。先生が二日連続で外に出るなんて。」
まさか昨日近所の虐殺厨に言われた事とほぼ同じ事をラズニに言われてしまうとは。
しかしよくよく考えてみれば確かにそうだ。
それでも行きたいものは行きたいのだ。気分に理由は無い。
それとも仕事がいつも通りスムーズに進んでいればこんな気分にはならなかったのだろうか。
否人によってはそれもあるかもしれないが、私にはそれは無いだろう。
それに私の場合他人から見て殆ど変わってないと思われているのだ。
散歩に行ったからといって急激に仕事が捗るようになるとも思えない。
まあどちらにしろ散歩に行くという予定は変わらない。決めた事だ。


玄関に来たが別段二日連続という実感は無い。
強いていえばラズニがわざわざ玄関まで見送りに来たことくらいだ。
そんなに珍しいのだろうか。
それを気にしないようにして私は玄関の扉を開けた。
上を見上げると晴れでもなく雨でもなく、一面に雨を降らせない雲が広がっていた。
その光景は既に窓から確認していたので、傘は扉を開ける前に手中に収めていた。
その分ラズニとの間に隔たりを作るのも早まる訳である。
まあ別にそこまで気になる訳でもないのだが。

外には出てみたが本当にただの散歩だ。行く当ても無い。
ただただ歩いた。
空は依然として晴れようとも雨を降らせようともしない。
今になって思ったが、もし雨が降っていたら散歩に出ようなんて思わなかったのだろうか。
それはあるかも知れない。
…あまりに普通の結論だ。
考える事もないせいで、どうでもいい事まで考えてしまったようだ。
これは早めに戻った方が良さそうだ。

そうと決めるや否やピスアはすぐに方向転換をした。
しかし転んでもただでは起きないという訳ではないのだろうが、理由は違えど昨日と同じく帰りは別の道を選んだ。
距離自体はそう変わらない。引き返すのも早かったので少し歩けばすぐに戻れる。
しかしそうはならなかった。
それは引き返そうとしてほんのすぐ後の事だった。
ピスアが道を歩いていると小さな公園が見えてきた。


家から見える公園と比べると少し古い感じがする。
その公園には子供は居ない。
そしてその代わりとでもいうのか、そこには紛れも無く奴らが居た。
そうそこに居たのは虐殺厨、しかも昨日の二人だ。
だが昨日とは何かが違う。それは表情一つ取っても分かる。
私はすぐに直感した。
そもそも公園のイメージとまるで掛け離れている奴らがこんな所に居る理由は一つしかない。
止せばいいのに目を凝らす。
「見付けたぞ。」
公園内から声がした次の瞬間、私の目に虐殺厨と同時に十匹程のアフォ族が映った。
それは身近にある光景の中で一番見たくないものだった。
そしてその光景もたった今完成しようとしている。

ゆっくりだった虐殺厨の足が突如速まった。
私は思わず顔を逸らして目を瞑る。
しかし耳を伏せるまでに動作が回らず、アフォ族の悲鳴を聞くことを許してしまった。
目を開けると半数程のアフォ族が血を流し倒れていた。
二日連続で外に出るということは二日連続で血を見るということらしい。
しかし昨日見た程に酷くはない。こいつらはまだマシな方なのだ。

だがここで想定外な事態が起こった。
アフォ族達がこちらへ向かってきたのだ。
「なっ…。」
その内の一匹のアフォ族が私の傘に跳び付いてきた。
私を敵視しているのか、傘の色に反応したのかは分からない。
ただこのままでは拙いということだけは分かった。
私は必死に傘を振り回した。
跳び付かれた瞬間私の頭脳から瞬時に導き出された対処法がそれだった。
とにかく只管危険から逃れようとした。
すると何とか振り払うことが出来た。
跳び付いてきたのがちび系だったのがラッキーだった。
もしこれがある程度の大きさを持った奴だったら、私も傘のようになっていたのかもしれない。
傘には数ヶ所穴が開いてしまっている。
振り払ったそのちび系のアフォ族は地面に倒れ込んだ。
しかしそのすぐ後に虐殺厨が私の目の前に現れる。
そして私の振り払ったちび系のアフォ族に止めを刺してしまった。
あまりの咄嗟の出来事に今度は目を瞑ることさえも出来なかった。
この時私は多少の罪悪感を抱いた。
「おい、ここに居ると怪我するぞ。」
その言葉で私はすぐに我に返る。
アフォ族の方に目をやると、十匹程居たのが今は四匹になっていた。
その四匹もこの後すぐにこいつらに生命を奪われてしまうのだろう…。


…何か感じる。
一瞬その感覚に戸惑ったがそこは私だ、すぐに分かった。
一匹のアフォ族が私の事をじっと見ている。
そのアフォ族は一見するとどこにでもいそうなしぃ族、つまりアフォしぃだ。
けれど何かが違う。
こんな事は今までにはなかった。
そしてそのアフォしぃは言った。
「タスケテ…。」
そう言った。
それは確かに私に対して言った言葉だった。
しかし二人はそれに気付かなかったのかアフォしぃに対して言い放つ。
「馬鹿だなあ。お前を助けようとする奴なんている訳ないだろ。」
するとそう言い放った奴はアフォしぃに近寄り始める。

このままでは拙い。
殺されてしまう。
助けなければ!

「よせ!」


このタイミング、この時…昔は現代へと一つコマを進めた。


その声は公園中に響き渡った。
といっても辺りに人は居ない。
居るのはアフォ族と虐殺厨、そして声の主の私。
声が先走ってしまったという訳ではないが、それでも自分の取った行動に私自身驚いた。
その声に反応し振り返る虐殺厨。勿論悪感の目で。
しかしたじろぐ必要はない。余程の事が無ければこいつらは私に危害を加えない筈だ。
「お前まさかこいつを助けようなんて思ってるんじゃないだろうな。」
予想通りの反応。
勿論それをこいつらが許す訳がない。
もしここで「そうだ」なんて言うものなら恐らくこいつらは私の目の前でアフォしぃを殺すだろう。
だからといって力尽くで助けるのも無理だ。
私は正義の味方でもなければ、大した正義感も持っていないのだから。
だが逆にそれが功を奏したのかもしれない。
私には私のやり方がある。
「違う。そいつはアフォ族じゃないかもしれんぞ。」
そう嘘をついて誤魔化す、至って単純な手だ。
否それは嘘であって嘘ではない。少なくとも今の私の感情論では。
とはいえやはりそう簡単には納得してはくれないようだ。
しかしその程度で折れる私ではない。
だから私はある行動に出た。
「こいつが特殊なだけだ。虐殺ならやりたければ勝手にやればいい。」

まずアフォしぃに近付きながら、二人が動く前にその言葉を発する。
そしてその言葉を発している内にアフォしぃを抱いてしまう。
そうする事で二人に阻止されること無くアフォしぃを抱くことが出来る訳だ。
しかしそれだけでは何も状況は変わらないのではと思う人もいるかもしれないが、実はそうでもない。
私がこうして抱いているかそうでないかだけでも、相手の判断には心理的な差が生じるのだ。
ちなみにもし抱こうとした時にアフォしぃが抵抗していたとしたら、恐らく私はアフォしぃを見捨てていただろう。
そして勘違いということで、悔やむことも無くうやむやにしていたのだろう。
とはいえそれだけでは二人の疑いの目は恐らく完全には消えない。
だから最後にとある行動を取る。
その行動それは…視線を他のアフォ族へと移す。
そうつまり囮だ。
正義感の強い者なら決して取れないし取らない行動。
その行動を私は取った。
これが私のやり方だ。

作戦は見事成功。
ピスアはそのアフォしぃを白衣の中に隠して小走りで家へと戻った。
途中数人の人と擦れ違ったが気付かれることはなかった。
結局雨は降らなかったが、傘は違う形で使うこととなってしまった。
その傘はもう使い物にならないだろうが。
ピスアが玄関の扉を開ける。

扉が閉まった瞬間それまでの緊張が一気に解れて、私の身体はそのまま床へとくずおれてしまった。
それからすぐに玄関に来たラズニも流石に驚きを隠せなかったようだ。
「先生どうしたんですか。それにそのアフォ族は一体…。」
あたふたしているラズニだったが、私が事情を話すとすぐに状況を飲み込んでくれた。
ラズニはまず私を優しく起こして、アフォしぃと共に一階の部屋へと入れてくれた。
その後すぐに布団を敷いて暫く休んでいるように言われた。
その間ラズニはアフォしぃの汚れた体をお風呂場で洗い流してくれるようだ。
勿論ラズニに預ける分には不安は無い。


…漸く少し冷静になれてきた。
勿論つい先程までが冷静でなかったという訳ではないが、もしかしたら冷静を装っていた部分もあったのかもしれない。
普段なら装わずとも付いてくるそれを、なぜ失ってしまったのだろうか。
冷静さが完全に戻ると、驚きを通り越して自分自身に恐怖のようなものすら感じてきた。
とにかく考えなければ進まない。
冷静さを失った直接の原因はあのアフォしぃだ。
けれどそれを助長させた感情は何だったのか。
正義感でもなければ良心や愛ともいえない。
挙げるとすればあのアフォしぃがアフォ族でない可能性があるという事実だけだ。
だがその事実だけが私の冷静さを奪ったとはとても考えにくい。
ここで閊える。やはり分からない…。
しかしこれは急いで結論を出す必要も無い。
今考えるべき事は今後の事だ。
気を取り直して考えに浸ると、今度はスムーズに頭の中に想像が巡る。
一度決めてしまった事に対してうじうじと迷う必要なんて無い。
やるだけの事をやればいいのだ。
勿論今更外に帰すなんて選択肢は無い。

想像はやがて道標を描く。
あのアフォしぃがアフォ族でなかったとしても、やはり今のままでは拙い。
この状況でそれを解決することが出来るものは私の頭脳だけであろう。
つまりあのアフォ族でないアフォしぃを普通のしぃにする研究を始めようという訳だ。
しかし簡単にそうはいっても、それは全く簡単な事ではない。
はっきりいって天才である私でさえも難しいでは言い足りない。
しかしだからやらないとは思わない。決めた事である。


ラズニが戻ってきたのはそれからほんのすぐ後の事だった。
ラズニに次いでアフォしぃも部屋に入ってくる。
私は思わず見惚れてしまった。
淡色だった肌から汚れが落ちて鮮やかな桃色へと変化していたからだ。
まるで別人みたいだ。
ちなみに水を掛けたりしても抵抗はされなかったらしい。
どうやら私以外の人でも優しく接していれば抵抗はしないようだ。
まあそうでなければ流石に困るのだが。
しかしこのアフォしぃには本当に不思議なものを感じる。
アフォ族なのにアフォ族とは思えない、そんな中途半端な存在。
まるで今空を覆っている雨を降らせない雲のような。

早速私はラズニにこれからの事について話した。
ラズニは特に驚くことも無くそれを受け入れた。
ラズニがそれすんなりを受け入れたのは性格もあるのだろうが、この研究の意味を完全に理解出来ていないというのもあるのかもしれない。
とにかくラズニにこの事も伝えたし、アフォしぃも綺麗になったし、後は研究を進めるだけだ。
早速布団から起きて研究室へと向かう。
と部屋から出ようとした所で「先生」と勢いのあるラズニの声に呼び止められた。
咄嗟の事でラズニの言おうとしている事を予測出来なかったが、振り返るとラズニは言った。
「アフォしぃって呼ぶの…止めませんか。」
どうして今までそれに気が付かなかったのだろう。
とてもラズニらしい意見だった。
…と思ったものの、では何と呼べばいいのかと考えた所で詰まる。
咄嗟の事で何も決めていない。それどころか名前の事なんてまるで頭に無かった。
とりあえず今はアフォを取ってしぃと呼ぶことで一段落付いた。


研究室に入り、いつもの席に着く。
今から壮大とさえ言えそうな研究が始まるのだ。
しかし机の上がそれを遮ろうとする。
依頼された仕事が積まれてある。
私はもう自己を満足させる学者から社会が必要とする学者へと移動してしまっている。
個人的な研究にはあまり時間を費やせないのが現状だ。
しかしそんな事を気にしている時間があったら、さっさと手を動かした方がいい。
ここでうじうじしていても得は無い。
早速取り掛かろう。

ここからピスアの長い苦難が始まった。
普段ピスアがやっている仕事は、長くても半月以内には済ませられるようなものだった。
だが今回ばかりはそうもいかないだろう。
しかしピスアの意思はもう変わらない。
そんなこんなで一日はあっという間に過ぎる。

やっと寝床に就ける。
時計の針は既に深夜を指していた。
別に珍しい事ではないが今日は一段と疲れた。
流石のラズニもしぃを引き取ってはくれなかった。
まあ当たり前といえばそうなので仕方ない。
ラズニには家に帰れば家族だっているし、何よりしぃを連れてきたのは自分なのだから。
それは分かっている。分かっているが困った。
私は科学の通用しない世界を認めない訳ではない。それでもやはり困った。
中でも一番困ったのが夕食だ。
私はラズニ程の料理の腕は持ち合わせていないが、これでも今の今まで一人暮らしを続けていた身だ、それなりの自信はある。
しかしこのしぃに食べさせるとなると別である。
逆にもしかしたら今まで恐らく好き嫌い無く何でも食べてきたのだろうから、そこまで神経質に考える必要は無いのだろうかとも考えた。
そんなこんなと色々考えた末、結局無難に栄養のあるものを食べさせるに治まった。
確かによく見ると汚れこそはお風呂で洗い落として綺麗になっていたものの、体つきは普通の人よりも若干細々としている。
当分は栄養のあるものを食べさせた方が良さそうだ。
…当分は疲労を抱えそうだ。


あれから一日が経った。
虚ろな目を隣に向けると、まだすやすやと眠っているしぃがそこに確かにいる。
別に昨日の出来事が夢だとか思っている訳ではない、ただ何と無く事実を再確認してみただけだ。
第一夢と現実の区別なんて頬を引張らなくても分かる。
視線を変えて時計を見るといつもより少し早く目が覚めていることに気付いた。
とはいえ二度寝する気分ではないし、適当に昨日の研究の事でも振り返っておくことにした。
昨日は地盤固めだけで一日を費やしてしまった。
まあそれでも速い方なのだろう。
そして今日からが本当の研究だ。
その為にラズニにも研究材料を持ってくるように頼んでおいたし準備は万全である。
ちなみにそういう日のラズニは普段よりも数分早く来る。
それはともかくその研究材料を分析していけば、いずれ必ず何らかの結果が出る筈だ。
今日はどこまで進められるだろうか。

暫く経って部屋を出て身支度を始める。
そこで気が付いた。やはり朝食も食べさせるべきであろうか。
しかししぃをこんなに朝早く起こすのも気が引ける。
とりあえず夜とは違いラズニもいるし、後はラズニに任せてしまおうか。
何だか無責任な気もするが、それが最善であるのも事実だ。
身支度が終わったので研究室へと向かう。
向かう途中しぃを見るとまだ寝ていた。


「先生持ってきましたよ。」
予想通り普段より数分早くラズニが来た。
扉を開けるや否やそう言い、すぐに私の頼んでいたものを差し出した。
それは確かに頼んでいたものだった。
しかしラズニには少々申し訳ない事をさせてしまったかもしれない。
ラズニに頼んだ事はアフォ族の亡骸から体の一部を取ってこさせるというもの。
勿論殺して取るのではなく既に息絶えている者から取るのだが、それでも嫌な事には変わりは無いだろう。
しかしそれ無くしては研究は進まない。
そしてその取ってこさせた体の一部が何かというと文字列である。
私は文字列を解析するのを最も得意とする学者だ。
つまりそこからこの研究をアプローチしていこうという訳である。
ちなみにその後にラズニにしぃの事を任せると、やはりなのだろうか朝食を作った。

ラズニの持ってきた文字列の解析は予想していたよりも順調に進んだ。
もしかしたら意外と単純な因子なのだろうか。
まあ単純といっても複雑なのだが。
しかし実をいうと文字列は他のものと比べると意外と単純に出来ている。
あのことわざがよく似合う代物だ。
そうそれは正に「単純且つ明細」。
私がそれに魅了された理由もそこにある。
思えばそれに魅了されていたのは子供の頃からだった。
あの頃は文字列を完全に解読すればの全ての謎が解き明かされるとさえ思っていた。
まあそれは今考えると恥かしい子供心なのだが。
今は今の自分がいる。
早く解析を進めなくては。

二日目はそんな調子で比較的順調に進んだ。
次いで三日目もそれに習って順調だった。
しかしその流れは四日目にして途絶える。
研究は停滞気味になり中々進展を見せなくなった。
そしてその状況はピスアの意思とは裏腹に長続きしてしまう。
結局その状況を打開出来ずに、ピスアの研究は一週間を迎えることとなる。


日が傾くのが早く感じるのは気のせいなのだろう。
どうも研究が思うように進まない。
しぃとの距離は日に日に縮まっているというのに。
ちなみにそのしぃには一昨日漸く名前を付けた。
その名前はというと…ジィニ。
ちなみにこの名前をラズニに伝えると、ラズニには「良いじゃないですか」と素っ気無く返されてしまった。
別に良い反応を期待していた訳ではないが、どうも物足りなさが残る。
けれどまあそういうものだと思って割り切った。
それに名前というのは無難の方がいいのかもしれない。
といいつつ名前の由来はというと、天才を英語に直して最初の三文字を取った訳なのだが。


それから暫くしてラズニがジィニを連れて部屋に入ってきた。
始めの内はジィニを研究室の中には入れないようにしていたが、日に日に警戒心が緩んでしまい、今では普通に中に入れてしまっている。
勿論ここは研究室なのだから危険な物も沢山ある訳で、ジィニに気を配ることは怠れないが。
それはそうとラズニが部屋に来たのは何か用があるからなのだろう。
私がその事をラズニに促すと、どうやらまた仕事の依頼のようだった。
依頼用の書類を手に取り目を通す。
そして読み終えて少し間を開けた後ラズニに言った。
「この依頼は断ることにしようと思う。」
依頼というものは請けることもあれば断ることもある。
それは私も変わらない。
しかしラズニの目は欺けなかったようだ。
否ラズニでなくても気付くかもしれない。
「何だか依頼断ってばかりですね。」
そう研究に時間を注ぐ為それをやってしまった。
恐らく今日から依頼を断ることが増えていくだろう。
そうなったのはやはり予想よりも研究に進展が見られずにいることが原因なのだろう。
もしかしたら進展が滞らなくてもいずれはそうなっていたのかもしれないが。
とはいっても考え無しに依頼を断っている訳ではない。
この研究で成果を上げればその断った依頼の分を補えるという計算の上での事だ。
とはいえそれでも依頼を断ることが増えているのは、何とも言いがたい気分ではある。

「ピスアがんばッテ。」
そんな私にジィニが声を掛けてくれた。
思えばジィニを拾ってもう一週間だが、仲の良さは日に日に増している。
それは言葉を交わすことが増えたり、極端に気を使わなくなった所からも覗える。
ちなみに最初は細かった体型も段々と元に戻ってきている。
研究とは違い本当に申し分無い進展だ。
それと一つ印象に残っている事がある。
それはジィニの半角喋りがほんの僅かではあるが薄らいだことだ。
理由は分からないがもしかしたら私に心を許した証拠なのかもしれない。
まああくまで仮定であって根拠がある訳ではないし、研究において重要な事ではないと思われるので、それより深くは考えたりはしないが。
どうせならこのまま半角喋りが完全に無くなってくれればいいが、恐らくそれは無いのだろうし。
「ありがとう、頑張るよ。」
とにかくジィニの為にも頑張らなければだ。
頑張り過ぎて倒れなければいいが。
と思ったが依頼の断りを増やしたのだからそれは無いだろう。

研究はその後漸く気流に乗り出す。
どうやら依頼の断りを増やしたのが得策となって表れてくれたようだ。
そしてそこからの進展には目覚ましいものがあった。
ここら辺は流石ピスアといっていいだろう。
数日間の停滞をチャラにしてしまう程の勢いだ。
その勢いは滞りを見せない。
そして研究を始めてから二十日と少しが過ぎた頃、漸く一つの成果となって形を表すこととなる。
その日の研究室の風景はいつもと少し違っていた。


「あの、本当に大丈夫なんでしょうか…。」
これで今日聞いてきたのは四度目だ。
ちゃんとテストもして成功は確認済みだと言っているのに。
何度言えば安心してくれるのだろう。
しかも私が言っているのだ。もう少し信頼してくれてもいいだろう。
とはいっても心配してしまう気持ちが分からない訳ではない。
それに実際にこれを使うのは今日が初めてだし、何よりこの人はこれを受ける本人ではない。
こういうものは意外と本人よりも付添の方が返って心配してしまうものだ。
現に本人は不安どころか早くこれを受けたくて堪らない様子だ。
その表情はまるでこれからの未来に期待を膨らませているかのようにも見える。
そんな表情を見せられてしまったらもう失敗なんて出来る訳がない。
「勿論です。必ず成功します。」
ちなみに話によるとこの人は最後までこれに反対していたのだが、結局最後は本人の強い意志に折れてしまったらしい。
何だかんだ心配していてもちゃんと分かってくれている。
しかし何も四度も聞かなくてもいいだろうとは思うが。

と準備を任せていたラズニがそれを終えたらしい。
いよいよ始まる。
私が今からやろうとしている事は文字列組み換えである。
組み換えというと高度な技術を要するというイメージを持つ人もいるかもしれないが、実はこれはそんなに大それたものでもない。
確かにそれを発見するに至るまでは物によっては学者の苦難と努力を要するものもあるが、やり方が分かってしまえば後はこっちのものだ。
とはいえ人体を扱うこともあるので勿論資格はいるのだが、はっきりいって下手な手術よりもこっちの方が余程簡単で安全だ。
何よりこの最大の長所といったら、血を見ることが無いということである。
本当に何と素晴らしい事なのだろうか。
私がこれに魅了されたのはそういう所にもあるのだ。
そんなこんなしている内に私の準備も整った。
「オ願いシマス。」
始める直前にその人がそう言ってきた。
顔は依然として笑顔を保ったままだった。
私もそれに対して少し笑顔を返して、そして作業に取り掛かる。
組み換え開始だ。


これを終えた時この人は今までの自分から変わることになるのだ。
どう変わるのか、それをまだ言っていなかった。
どう変わるかは言い換えれば研究の成果だ。
この研究の成果、それは文字列組み換えによって半角喋りをする者を普通に話せるようにさせられるという驚くべきものだ。
この成果は大成功といってもいいだろう。
ちなみに組み換えはちょっとした装置を使うだけで出来る。
その装置を何かに当てるとその部分が光り出し、その光っている間は自由に文字の出し入れが出来るのだ。
それは人体にも使えるし支障も無い。
後は研究の結果に従った文字を出し入れ、つまり組み替えればいいのだ。
しかし考えれば考える程実に不思議なものである。
一体どういう原理で成り立っているのか私にも全く見当が付かない。
ちなみにこの装置を作った昔の学者が言うには神がAAを組み立てる時と同じ状態を作り出しているということらしいのだ。
それを一部で行われるから組み換えという名が付いたのだ。
そしてその組み立てというのがまた凄い、否凄いでは言い表せないものだ。
組み換えるのではない、完全にゼロから組み立てられるのだ。
本当に私でさえも届かない世界だ。
尤もそれが神の仕業かどうかは知らないが。
ちなみに私は神は信じる信じない以前に興味が無い。
しかしその現象で生まれてくるAAはなぜかアフォ族が多いという。
もしそれが神の仕業だとしたら何とも皮肉なものだ。
組み換えは順調に進んでいる。
もうすぐこの人も普通に話せるようになるのだ。
我々には半角喋りの辛さは分かれないだろうし、逆にそれが直った時の喜びも決して味わえない。
けれど逆にそういうものがあるから世の中は面白いのかもしれない。
しかしながらここまでの成果を上げたのは本当に久し振りなような気がする。
久し振りにやり甲斐を肌で感じられた。
組み換えは無事終わった。


「普通に…話せます。」
結果は無論大成功。
失敗は絶対にあり得ないと確信していたが一応ほっとする。
とその組み換えを受けた人が突然走り出した。
終わった後であれば自由に動いてくれて問題は無いのだが、まさか終わっていきなり走り出そうとは。
しかし走り出したのには当然理由があった。
次の瞬間心配性なあの人に勢いよく抱き付いたのだ。
そう我が夫に。
喜ぶより先に夫に抱き付く妻。
…私とした事が自分と重ね合わせてしまった。
それはともかく近い内にジィニにもこれをさせる予定だ。
実はジィニにはまだこれをさせていない。
別にテストで成功は確認済みなのだから記念すべき第一号としてもよかったのだが、万一の事を考えてしまったのだろう、相変わらずだ。
しかしまあ今は純粋に喜んでおこう。


あの夫婦も帰ってもうお昼だ。
今は三人で昼食を取っている。
ラズニなりの成功祝いなのだろうか、今日の昼食はいつもより豪華だ。
「先生おめでとうございます。こんな事が出来るなんてやっぱり尊敬しますよ。」
予想通り祝福の言葉が来た。まあ当然といえばそうなのだろうが。
とはいえラズニの事だ、お世辞などは入っていないのだろう。
しかし成功したといっても全てが終わった訳ではない。
「ああ、だがこの組み換えは知能が良くなる訳じゃないからな。」
そうこの成功は本来の目的の中のほんの一部でしかない。
それとは別に最近少し拙い事になってきている。
依頼を断ることが多くなったせいで私の信頼が傾き始めたのだ。
今回の成功でそれも何とか回復するのであろうが、今後もまたいつこうなるかも分からない。
これから先の道則は更に険しくなるだろう。
けれどまあ今回みたいにきっと成功する筈だ。
「ピスアおめデトウ。」
この半角喋りがもう聞けないと思うと、少し名残惜しい気もする。
…否流石にそれはおかしいか。
ちなみにやはり私の予想通り最初の数日以来、半角喋りが薄れるという変化は見られなかった。
下らない期待は抱かないに限る。

その数日後に行われたジィニの組み換えも見事成功。
ピスアは次なる目標へ向けて更に研究を進める。
その次なる目標は知能の普通化。
素人目にも今回より難しいということは覗える。
しかし元々今回の解析結果はその目標が脇道に反れて偶然とはいわないが発見出来たものだったので、データの使い回しが効くことになる。
お陰で研究のペースは多少の起伏はあるものの、極端に衰えることはなかった。
日は刻々と過ぎていく。


気付けば依頼は必要最低限のもの以外断るようになっていた。
しかしこれは少々やりすぎだったのかもしれない。
その結果このままでは信頼が傾くだけでは済まされなくなるという所まできてしまっていた。
まさか自分がこんな事になるなんて…。
確かに今思い返してみると、少々やり過ぎてしまったのではないかと思われる部分も頭に浮かんでくる。
私に限ってどうしてこんな事になってしまったのだろう。
けれど今はそんな事はどうでもいい。
とにかく何とかしなければ。

一日中考えた末一つの結論に達した。
そして恥を承知でとある人に連絡を取った。
その連絡先の人とは私と仲の良いとある政治家だ。
そしてその人に信頼を支える為に色々と無理なお願いをしたのだ。
つまり助けを求めた訳だ。何とも情けない。
しかしそのお陰で何とか信頼が傾くだけで済まされそうだ。
本当にその人には感謝している。
結局誰だって独りでなんてやってはいけないのだ。
けれど申し訳無いとは思うが、やはり後悔はしていない。
それが私だ。

研究はピスアの予想以上に長期化している。
それでも日を追う毎に着実に成功へと近付いていることもまた確か。
しかしもうここまで来るとちょっと頭の良い学者では、ピスアには付いて来れないだろう。
ピスアの天才としての風格も日を追う毎に上がっているようだ。
そして苦難ともいよいよ決着を付ける時がくる。
その時にはもう研究を始めてから三ヶ月が経とうとしていた。


ラズニの準備は既に完了している。
私も準備を急がねば。
もうすぐジィニもここへ来る。
そう今回はジィニが記念すべき第一号だ。
勿論テストでの成功は確認済み。
絶対に上手くいく。
そうは分かっている。分かっているが鼓動が早い。
「ピスア…不安なの?」
ジィニは部屋に入ってくるや否や私にそう言ってきた。
まさか見透かされる程顔に表れてしまっているのだろうか。
成功は確実だということは自分自身が一番よく分かっている筈なのに。
ここに来て漸くあの時の夫の気持ちが本当の意味で分かった。
簡単な事だ、結果が分かっていても不安になるのだ。
けれど逆に考えれば不安でも絶対に成功するということでもある。
まあ不安を感じずに成功するのが一番いいのだろうが、それが出来ないのが感情の面白い所としか言いようがない。
それでもやはり四回は多い気がするのだが。
そんなこんなで私の準備も終わった。
しかしここまで本当に長かった。
準備は全て整った。後は私が動くだけだ。
早速作業に取り掛かろう。
組み換え…開始。


実際に組み換えを始めると鼓動も元に戻っていて不安もどこかへ消えていた。
というよりも無理にそうした。
そんな事で失敗の因子を作りたくはない。
その時気付いた。
何だかあの時の感覚に似ている気がする。
きっと今の自分は冷静さを装っているのだろう。
と思ったが今とあの時とでは距離が違うからやはり比較にはならない。
結局なぜあの時あんなに必死になったのかは今の今まで分からなかった。
作業は順調に進む。
そして…終わった。


ジィニは体を起こしてその場に立ち上がった。
そして笑顔で私の方を見詰めた。
どうやら大成功のようだ。
しかし思えば凄い事をしてしまったものだ。
今思えばこの研究には三ヶ月近くの歳月を要した訳だが、もし私以外の人がしていたらそんなものでは済まなかったのかもしれない。
するとジィニがこちらへゆっくりと歩いてくる。
一瞬まさかとは思ったが、私の目の前で止まった。
下らない期待をして外れてしまうとは情けない。
とはいえ見詰めながら目の前に来たのだから何も無いことは無いだろう。
そしてジィニがそれをした。
「ピスアありがとう。今まで迷惑掛けてごめん…。」
それはお礼だった。
それで十分だった。

とここまでは良い感じだったのだが、ここから先は突然雰囲気が変わる。
なんとジィニが自分の体験談を下にアフォ族に対して一つの仮説を唱え始めたのだ。
いくら知能が普通化したからといって、まさかいきなりそんな得意気になろうとは。
この展開は流石の私も全く持って予測不能であった。
否逆に私が元から天才だからだろうか。
それでもこれは無い気もするが…。
そしてそのジィニの言う仮説とは、アフォ族には大きく分けて二つの種類がいるというものだ。
一つは元からアフォ族として生まれたオーソドックスなもの。
そしてもう一つは本来なら普通の知能を持って生まれる予定だったが、何らかの因子でアフォ族へと変化してしまったものだ。
ちなみにジィニ本人は後者なのだそうだ。
そしてもう一つ重要なのは後者は生まれるといってもお腹からではなく、全て組み立てられて生まれるということだという。
組み立てがアフォ族に多いのもそれが関係しているのらしい。
そしてその因子というのは、虐殺厨を始めとした人達の心の中の邪念が組み立てに影響しているのだそうだ。
まあそこまでくると少なくとも科学的にはどうかとは思うが。
気付けばさっきまでの雰囲気はどうでもよくなっていた。
まあ相変わらずである。
しかし何か違和感を感じない気もしなくもないが…。


それからお昼になり、三人で昼食を取る。
今日はあの日よりも更に豪華な昼食だ。
二人からの祝福もまたあの日よりも豪華なものだった。
まあそこまでは無難な流れだろう。
だがラズニの言葉でその流れは終わる。
「ところでこれからジィニはどうするんですか?」
そうまだそれが残っている。
とはいえこういうものはまずは本人の意見を聞くべきだ。
そして私がそれを聞くとジィニはこう答えた。
「出来ればずっとここに居たい…。」
そう答えてくれた。

それから三日が過ぎた。
この間色々な発見があった。
この組み換えを他のアフォ族でも行ってみたのだが、成功する場合と変化しない場合があることが分かったのだ。
ちなみに残念ながら割合は成功する場合の方が圧倒的に少なかった。
しかしそこでとある事に気が付いた。
この結果をジィニの仮説に当て嵌めると、見事なまでに糸が繋がったのだ。
つまり元からアフォ族の場合は変化しないが、アフォ族に変化してしまった場合は元に戻ることが出来るということだ。
何より割合がほぼピッタリという所がそれを確信へと近付けた。
しかしそうだとしたら少し疑問が残る。
成功した者はジィニ以外にも結構いたのに、アフォ族とどこか違う感じのした者はジィニ以外には一人もいなかった。
しかしその疑問もこの三日間で段々と解けてきた。
そう段々気付き始めたのだ。
もしかしたらジィニも…天才なのではないか。
勿論私には敵わないだろうが。
第一成功した者の中であんな仮説を唱えられたのはジィニだけだった。
あの時感じた違和感はこれだったのだろう。


とその時後ろで扉の開く音がした。
後ろを振り返ると部屋に入ってきたジィニが嬉しそうな表情で立っていた。
そして私に言ってきた。
「約束通り散歩に連れてってくれるんだよね。」
私は昨日ジィニと散歩をする約束をしていたのだ。
あの時は咄嗟に聞かれてつい明日と答えてしまった。
別に昨日の内に行っても良かったのだが、もしかしたらジィニが虐殺厨に襲われてしまうのではないかという不安がつい口に出てしまった。
まあそれは今のジィニではまずあり得ない事なのだが。
それはともかく実はジィニは今までずっと匿われていた状態だったので、あの日以来一歩も外へは出ていなかったのだ。
それとは関係ないが思えば私も最近全く外へは出ていなかった。
勿論二人で散歩をするのはこれが始めて。
「そうだな。じゃあ行こうか。」
今日は久々に気分の良い散歩が出来そうだ。

研究室を出て階段を降りる。
するとラズニと調度玄関で会った。
足音を聞いて玄関まで見送りに来てくれたようだ。
ジィニはまるで喜びに満ち溢れているかのような笑顔をしている。
そしてそれは私もまた同じ。
私はドアノブを握り、そして開けた。
外を見るとあの日と同じような天気をしていた。
だが今はその事は忘れてジィニとの散歩を楽しもう。
そして私とジィニは扉の外へと一歩一歩足を進めていく。
この時やっと終わったんだという実感が持てた。


今思うともしかしたら私はジィニと出会ったその瞬間から彼女が天才だと気付いていたのかもしれない。
だからあの時あんなに必死になった…というのは無理な推測だろうか。
私はジィニと出会って何か変わった気がする。
だが何が変わったのか、それはよくは分からない。
まあ人間変わらない奴なんていないのだし、そこまで気にする事でもないのだろう。
それに私は天才だ。
変わったといっても変わらないので誰にもそれは分からない。
まあそれはそれで困るのだが。
…案外この三ヶ月間よりもそっちの方が余程苦難なのかもしれない。

そして扉は閉まった…。
それを見たラズニは静かに部屋へと戻っていく。
ところが扉はまたすぐに開いてピスアがまた戻ってきた。
扉の音が聞こえて振り返ったラズニも慌ててそれに対応する。
「どうかされましたか…?」
といっても質問を投げかけるだけだったが。
しかしそれに対する返答は素気の無いものだった。
「…傘だ。」
そうただ傘を取りに戻ってきただけ。
そして一つ傘を手に取ったピスアは再び扉の向こうへと消えていった。
それを見たラズニは扉の向こうに居るピスアに向けて小さな声で呟いた。
「変わったんだか変わってないんだか…。」

〜後書き〜
恐らくこのイベントが無ければ没になっていたであろう作品です。
なので実を言うと構成とかは殆ど考えていませんでした。
だから完成するまでどんな作品になるかは自分でも分からなかった訳です。
実は最初はジィニを救う為に虐殺厨をお偉いさんに頼んで殺してもらう
という話を考えていたんですが、結局そんなものは微塵も無くなり…。
ただそのせいか主題が曖昧になってしまったかもしれません…。
まあ敢えてそういうやり方で書いてみるのも悪くはないような気がします。